滅多に観ない演劇で考えたこと/「GIFTED」作・演出・振付 野上絹代
普段演劇は滅多に観ないのだけれど、偶然通りがかった会場で、貼られたポスターのその公演が開演10分前で、そして当日券あり!という文言に僕は足を止めた。
少し逡巡した後、そっと値段を確かめ、特にこの後予定もない土曜日の夜だし、そんな気分だからという理由で内容もよく分からないその演劇を見ることにした。
結論から言うと、その作品は素晴らしいものだったと思う。
普段滅多に演劇を観に行かない僕だからなのか、はたまた題材がたまたま自分にヒットしたのかは分からない。
話は、卒園式を控えた保育園で、式において幼児たちが発表する演目をめぐる保育士の男性と幼児たちのドタバタ、一方で老朽化したと思われる団地で在宅介護を受ける老女の日常がシンクロするように展開していく。物語は卒園式での幼児たちの発表会に収束していくのだけど、まさかSF的な世界観に達するとは思わなかった。インターステラーかと思った。
ともかく、とても現代的で、ある意味ホットなテーマを扱った作品だった。
演目の作者である野上さんという方はまさに小さなお子さんを育てているお母さんらしく、保育園や幼児たちの描写は実情に迫ったものであったのだろう。育児や介護の現場には程遠い自分ですら、遠い記憶を呼び起される感覚を覚えた。
つい最近、保育園に落ちて日本しねと表明した匿名のメッセージが話題になったが、やはり自分のような実際の現場を知らない人間にとっては、制度上の問題を考えることはできても現場で起きていることまで想像力を働かせることはなかなかできない。
実際、演劇という表現を通して育児現場や介護現場を擬似体験することで、保育園問題についても、ふと思い出したりした。やはり生身の人間が眼の前で演じる力は、とてつもなく大きい。
同時にきっとみた人が大きく心を動かされるであろう、とても重要な同時代性をもつ表現が非常に限られた空間、コミュニティで閉じていることについて、もったいなく感じてしまった。
演劇の場合は、仮にバズった後でもすでに公演が終わってしまっている、ということも多いだろうから、とても難しい。しかし逆に言えば、演劇の世界はまだまだ閉じているからこそ、なんとかより多くの人に届けるための手段を考える余地が大きくあるのかもしれない。
世の中のコンテンツの供給過剰は明らかだからこそ、もっと自分が良いと思ったものはみんなに知ってもらいたい。SNSで共有するとかではなくて、もっといいかたち。ないだろうか。
村上隆のスーパーフラット・コレクション 雑感
村上隆のスーパーフラット・コレクション ―蕭白、魯山人からキーファーまで― | 開催中の展覧会・予告 | 展覧会 | 横浜美術館
会期も終わりに近いということで、いそいそと見に行った。
村上隆のコレクションの展示であって、村上隆の作品展ではないので、ある意味、予備知識なしのあけてびっくり玉手箱状態になる人も多いと思う。
自分もどちらかといえばそんな感じだった。
並んでいる作家はどちらかと言えば名が通っている作家が多いし、作品個別の文脈は知らない作家でも割と推測できる分かりやすい作品が多い印象があったが、村上隆がこれらの作品をどのような一貫性を持って集めたのか、正直わからなかった。いや、おそらく本人が自覚している一貫性もないのだろうと思う。
一応のその答えとして、展覧会途中にある、本展に寄せての彼の文章には、このコレクションは彼が「芸術とは何か?」を考えて、あれやこれやと手を出してきた結果なのだと書いてあった。
つまり、そこには彼なりの無意識の集積があって、それが結果として現れたのが今回の展示なのだということになるが、構成としては潔く作品を年代ごとに並べただけの展示であり、そこにキュレーターの恣意性や具体的なコメントはない。
コレクション展ってそういうものだけど、それでいいのかな〜と思いつつ、個人的には考える隙間ができるし、久々にわかんない展示って面白い、と思える展覧会でもあった。
ところで「芸術とは何か?」という問いの答えとして、村上は時代の中で育まれたモノの結晶と締めていたけど、それは非常に広義的な定義だと思った。例えばそこには電化製品のような実用品も含めていいのではと思ってしまうが、それは芸術なのだろうか?
結局そんな100年も前に提示された問いを再び思い返してしまうほどに、やっぱり芸術ってわからないものだな、と美術館を出た後もしばらく考えてしまった。
世界を肯定する音楽:フジロッ久(仮) - 「超ライブ」
フジロッ久(仮)という少々癖のあるバンド名は、音楽好きなら語らずともその元ネタがわかるだろう。
フジロッ久(仮)は2004年に結成された東京在住のパンクバンドである。
そんな彼らが2016年3月9日に新アルバム「超ライブ」を発売する。
パンクバンドということで、もともとは銀杏BOYZのフロントアクトを務めていたり、もう少し明確にパンクよりのサウンドを作っていたが、今回のアルバムではより独自性を高める形になっている。徐々にシフトを見せていたバンドが目指すサウンドがより明確になってきた形だ。
(アルバムのアートワークやミュージックビデオのクオリティも非常に高い)
国民的アニメの主題歌からの引用や、パンクバンドなのに数多くのパーカッションの使用、鍵盤のメロディなどそのサウンドはパンクという枠を大きく超えてきている。
一見カオスにも思われる要素の多様だが、一回聴いてみればわかるように、よく練られたサウンドはむしろ耳に心地よい。
さらに2人いるフロントマンである藤原と高橋が刻む言葉には、複雑に絡むサウンドの中にあって、パンクの精神を保ちながら詩的で、とても響くものになっている。
そして何より、彼らの音楽は前向きだ。
要素の複雑化が結果として祭り感を出し、音楽的な背景と加えて、彼らのキャラクターが多幸感を増幅させている。
サウンドの演出によって気持ちよく聴ける、踊れる音楽が増えている傾向が世間的には言われているが、僕にとって、彼らの音楽は気持ちを前向きに、そして気持ちよく支えてくれる。
4つ打ちロックでもなく、シティポップでもなく、EDMでもなく、ましてやアイドルソングでもない、こんな音楽が今出てくることを、なぜか不思議に思いつつ、嬉しく思う。
多幸感が漂うその音楽が僕は好きだ。
彼らの、これからのさらなる活躍が楽しみである。
先生もの 東村アキコ「かくかくしかじか」を読んで
本年度の文化庁メディア芸術祭、マンガ部門大賞の東村アキコ「かくかくしかじか」を読んだ。
作者東村さんの現在までに至る漫画家人生を振り返った自伝的な作品なのだけど、この人の得意であるカラッとした人物描写が、事実をベースにしたこの作品でも生き生きと用いられている。
特に、作品の肝である東村さんの師匠、絵画教室の日高先生との数々のやり取りは、時々ほろっとさせる描写もあるのだけど、必ず笑える描写を入れたりするので、読んでいる側も辛くなりすぎず、次へ次へと読みたくなるのがさすがだと思った。
ちなみに、シリアス⇨コメディ⇨シリアス⇨コメディ⇨…という大きな揺り戻しで作品は進行するのだけど、各巻の終わりは必ずシリアスで終わらせるところに、作者のこの作品に対する誠意を感じるし、作品をどう受け取って欲しいのか、という作者のメッセージであるように感じた。
また先生との関係性を書いた自伝的作品といえば、四方田さんの「先生とわたし」を思い出す。
自伝的作品は、当然ながら作者自身が主人公なので、読んでいる時に感情移入していた気持ちからちょっとした描写でふと作者の自意識に違和感を覚えることもある。
でも、「わたし」を語りながら上記の2つの作品のように師弟愛をメインに据えることで、(物語の中で)作者の自意識に常に反省や客観が生まれるし、過去の失敗が痛々しさだけで終わらない効果を生んでいる気がする。
そして何よりもその純粋な人間関係を素直に美しいと思えることが私には多い。
師弟愛は人間関係の中でも愛憎が最も相反する関係の一つだと思うが、だからこそ過去のものとして語られるとき、時として他の関係よりもより強く人を惹きつけるのかもしれない。
雑感:Surface Pro 4 --「ある編集者の戦い」編 / Microsoft
Surface Pro 4 --「ある編集者の戦い」編 / Microsoft
「恐れることを恐れるな」
サッカーU-23日本代表の試合中継で、ハーフタイムに必ず流れるこのCM。
CMの訴求自体はタイトルにあるようにMicrosoftのSurface Pro 4という製品にあるのだが、スポーツ雑誌「Number」の編集者を主人公に据え、元サッカー日本代表のイビチャ・オシム監督にインタビューするストーリーなど、まさにサッカー日本代表選というイベントに合わせて企画されたCMであることがわかる。
このCMのターゲットやテーマは明確で、まさにCMに出てくるような働いている20代〜30代の比較的若い男性サラリーマンに向けて、彼らがぶつかる仕事を通じた自己の葛藤と決断について描いている。
またCMの特設サイトでも言及されているが、録画視聴などタイムシフトで個人に合わせたメディア受容が可能になった現在、スポーツ中継という、生放送が価値を持つある種の例外のコンテンツに流れるCMだからこそ、そこに合わせて今、リアリティのあるものを届けたいというメッセージは非常にシンプルで判りやすい。
少しそれるが20代〜30代の悩めるサラリーマンを同じくターゲットにしている転職サイトDODAのCMでも、偉人の名言を引く、といった形式で、岡本太郎やチャップリンの言葉を引用し、転職支援という自社サービスのPRを行っている。
要するに、悩めるサラリーマン(に限らず、すべての悩める人)にとって、先人達の言葉は大きな支えや指針になるのは確かで、決断的に言い切るような言葉は、特に若い男性には魅力的に映るだろう。いっちょここらで勝負してみるか。まさにターゲット層である僕自身もその気持ちはわかるところだ。
で、掲題のCMに戻ると、オシム元監督なんて特に、当時から「オシムの言葉」みたいな形で言葉について良い意味でも取り上げられていた人だし、こういったテーマのCMではその相性は抜群のように感じる。
メッセージやテーマが使い古されたものであっても、伝える人(オシム)の説得力、伝える環境(あえてのリアルタイムTV視聴)が整っていれば、陳腐にならず、その言葉はより強く響く。
編集者の主人公はオシム元監督に尋ねる。
「どうしたらあなたのみたいに自分らしさを貫けるのか」
そして監督はこう答える。
「恐れることを恐れるな、進め」
恐れずに進んだ結果が、映画「ファイトクラブ」のように破滅に進む可能性もある。意識高いCMだね(笑)とメタ的に消化してこのメッセージから受ける自分へのストレスを軽減をすることもできる。
でも理想と現実、安定と緊張の間で揺れ動く若年サラリーマン心理を捉えた良いコピーだと僕は思った。
あまり馴染みのない人が、「現代美術」を理解するための3つのポイント
photo credit: Sophie's Choice via photopin (license)
目次
- はじめに
- 現代美術とは何か
- 現代美術鑑賞の3つのポイント
- 作家の意図を考えてみよう
- 展示のテーマを深掘りしよう
- やっぱりなんとなく好きかどうかを考えてみよう
- 最後に
はじめに
みなさんこんにちは。
このブログでは初記事となるのですが、テーマは「現代美術」です。
なぜ「現代美術」をテーマに選んだかといえば、僕自身が趣味と名乗る程度に
美術鑑賞が好きで、この面白さをより広めていきたいと考えているためです。
僕は今20代後半で、大学でも美学など人文系のことを学んでいたので自然と「現代美術」に興味を持ったのですが、趣味としての「現代美術(鑑賞)」は、ここ日本ではあまりメジャーな趣味とは言えないのが現状だと思います。
そもそも美術や演劇、クラシックといった趣味は子供の頃から裕福で文化的な家庭で育った人が嗜むイメージで、俺には関係ない世界だな、と考えている男性も多いのではないでしょうか。
しかし「現代美術」鑑賞は、誰でも楽しめる趣味の一つだと僕は思っています。
その理由はシンプルで、理解しようとすればちゃんと理解できるものであるから、です。
美術といえば感性で楽しむもの、特に「現代美術」については難解で、わけがわからないというイメージがあるかたもいらっしゃるかもしれないですが、少しの前知識と心構えがあるだけで、「現代美術」鑑賞という行為はとても興味深いものになると考えています。
ではどうして「現代美術」が誰でも理解できるものなのか、
「現代美術」を理解するためのポイントとして3つの点を並べながら説明してみたいと思います。
現代美術とは何か
3つのポイントを説明する前に、「現代美術」とは何か、ということを僕なりに簡単に定義してみたいと思います。
その「現代美術」の定義とは、
「欧米的な思想に基づいた、伝統的美術・工芸を除いた表現行為」です。
正直この定義には異論反論あるかと思いますが、僕はざっくりこう言い切ってしまっていのではないかと思います。
なぜなら、欧米圏以外でも行われている「現代美術」の表現は、欧米で生まれた「現代美術」の世界を前提としているからです。日本の「現代美術」も当然例外ではなく、この定義に当てはまっていると思います。さらなるその理由や、日本の現代美術史の話に立ち入ってしまうと、とても書ききれない話になってしまうのでここで止めますが、興味のある方は中ザワヒデキさんや椹木野衣さんの著書を参照してみることをお勧めします。
現代美術史日本篇1945-2014: ART HISTORY: JAPAN 1945-2014
- 作者: 中ザワヒデキ
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とにかく、「現代美術」は欧米的、西洋的価値観を基にしていることが前提であり、ぶっちゃけると西洋の歴史、思想史、哲学史を勉強することが一番確実な現代美術の理解になることは確かです。
しかし、それは興味を持ち始めてから個々人がやればいいことなので、いきなりそれを鑑賞の前提として強制することは、多くの人に現代美術なんて見なくていいよと言っているのと同じです。
(しかしながら現在も日本において現代美術界がよく分からないものとして扱われている理由の多くは、この点をしっかり明示していない点にあると思っています…)
とにかく、「現代美術」は欧米的、西洋的価値観に強く根ざした表現行為であり、 そのことが常に作品のバックグラウンドにあることを意識することが重要になってきます。
ではその定義を前提として、現代美術を理解するためのポイントを3つまとめてみたいと思います。
1.作家の意図を考えてみよう
「現代美術」を理解するために重要な第1のポイント、それはまず作家の意図を考えてみることです。
とても当たり前のことなんですが、考え方の流れが大切で、作家がどうしてそのような表現行為に至ったかを考えてみることが重要です。
作家の経歴、バックグラウンド、そして過去の作品、、まで追えれば良いのですが、初見の作家で作品を前にして、スマホでググっているわけにもいかないです。
そんな時、展覧会では、作品のキャプションや解説などがあれば、その理解をおおいに助けてくれると思います。
で、その時の考え方なのですが、僕は以下のように考えてみたりしています。
現代で表現行為をしてみよう、と考えた時、今の時代様々な手段がある、と感じる一方で実は結構手段が限られていたりもします。
昔ながらの油絵などや、写真などの平面、木彫や金型で作った真鍮製の像などの立体、空間全体で表現するインスタレーション、そこに音や映像、デジタルデバイスなんかも加わって様々な試みが行われていますが、「現代美術」にしかない表現のフォーマット、というものはありません。(デパートの商品陳列なんかはまさにインスタレーションと言っていいと思います)
つまり「現代美術」の世界では、既視感のあるメディアを使って、個々の作家が新しい表現や問題提起を行おうとしており、作品はその表れなのです。「現代美術」の世界は表現活動の異種格闘技のような世界なので、様々なメディアが使われ、それが作品の理解をわかりづらくしているという側面もあります。
しかし、逆に言うと、作家はそのメディアを選んだという作為があります。
シンプルに作家が伝えたいことは何か、を考える時、そのメディアをなぜ選択したのか、を考えれば、意外と問題の本質が見えてくるかもしれない、と思っています。
そして例えば、作家の問題意識を共有した(と思った)時、自分だったらそれをどのようなメディアで表現するだろうか、と考えてみるのも、鑑賞の一つの楽しみ方かもしれません。
まとめると、作家の意図を考える時、そのメディアを選択した理由を考えることは大きな理解の助けになる、ということです。
2.展示のテーマを深掘りしよう
2つ目のポイントは、展示のテーマを深掘りすること、です。
多くの「現代美術」の展示では、展覧会にテーマが設けられています。
作家の個展でも、テーマがあった上でその作家の作品を選んだり、テーマを元に作品を制作したりします。
つまり、作品個別の制作意図や制作動機と同じくらいに、「現代美術」では展示する際のテーマが重要になっていることが多いです。
そしてここで重要なのが、テーマを設定するのは、キュレーターと呼ばれる展覧会の企画者という点です。当然ですが作家ではないのです。(作家本人の場合もありますが、その場合は作家自身がキュレーターを兼ねていると言えます)
古典絵画であれば、作品そのものさえ持ってきて、しかるべき環境で展示すれば展覧会が成立しますが、「現代美術」の場合は、作品だけ持ってきて展示しても、それこそ鑑賞者には文脈の読み取れない意味不明なものになってしまう可能性が高いです。
逆に言えば、展示のテーマさえ明確であれば、作家があまり考えていない作品でも、明確な意図や狙いを持たせることが(キューレーターの手によって)可能になる場合もあります。そしてそれが「現代美術」の面白いところだと僕は思っています。
例えば、展覧会のテーマがちょっと前によくあった「建築とアート」みたいなものだと、「現代美術」の文脈によって建築家の設計した建築物が語られたりしますが、それは「現代美術」という定規を使って建築を再定義しているようなことだと思います。
それはもちろん一面的な見方であって、絶対的な評価ではありません。
ここで重要なのは、「現代美術」の文脈で語られる作品は、常に相対的な目線によって理解されているということです。
テーマを設定したキュレーターの視点、作家の視点、そして鑑賞者であるあなたの目線。一つ目のポイントで、展覧会にあるキャプションや解説は理解の助けになると書きましたが、それは事実である一方で、考え方を他人に依存しているということでもあります。
結論としては第1のポイントに収束してしまうのですが、展覧会には、作家以外の視点がある、ということを意識することが重要です。展覧会のテーマを深掘りすることで、キュレーターの視点を理解し、より作品に相対的に接することができるようになります。
その上で、作品に向かい合ってみるとより違った理解ができるかも知れません。
3.やっぱりなんとなく好きかどうかを考えてみよう
最後はやっぱり直感です。
最後と言っても、実際の鑑賞ではやはり視覚的な体験が先にあるので、
作品の前に立った時、まず初めに判断するポイントになるかと思います。
なんとなく好きかとどうかを判断する基準は、それこそ見た目が好きだとか、作品の醸し出す力強さに圧倒された、みたいな抽象的で個人的な理由で良いと思います。
そういう感情を理由を見つけて考えることもできるのですが、考えなくても良いところが「現代美術」に限らず、美術鑑賞、音楽鑑賞など芸術を楽しむ時の一番の良さであるというのが、素直な気持ちです。
作品の正面に立って、その作品が好きかどうか、もっと見ていたいかどうか考えてみてください。
その時に気持ちの理由が分からなくても、意外とその直感が後で腹に落ちることもあります。
日常生活の中で、あっ、と思うこともあったりで、それが醍醐味だったりします。
あと、むしろ作品と全然関係ないことを考えて、意外と思考が進んだりするのも効能の1つだと思います笑。
最後に
非常に簡単、かつ個人的な考えに基づいた「現代美術」の鑑賞のすすめになりましたが、少しでも参考になれば幸いです。
個人的には、「現代美術」はあらゆる好奇心の入り口になるものだと思っています。
なぜなら「現代美術」は「今」もしくはその作品の同時代性を捉えている作品が多いため、必然的に世の中で起こっていることにも関心が向くためです。
「現代美術」と世界で今起こっている問題などの間には表裏一体の関係があることが多く、現代美術が表象していることが、今世の中で起こっていることそのものである、というのが、「現代美術」が目指している一つの方向性と言っても過言ではないのかもしれません。
しかしそれゆえに、「現代美術」が語られている特殊なアートワールドの世界と、実際に問題が起こっている現実との間に愕然としてあるギャップが、しばしば批判の対象となっていることも否めません。
そうした「現代美術」が内に持っている構造の矛盾それこそが、まさに21世紀の世界で起こっている問題を表しているような気がするのは皮肉ですが、私はそんな「現代美術」の世界がこれからもどうなっていくのか楽しみで、そんな人が一人でも増えれば幸いです。